ロマンティック・アイロニー

好きなこと・気になったことについて書いていきます!

人生のコンパス 〜「幸せ」編〜

はじめに

 前回の「人生のコンパス〜「学び」編〜」に引き続き、今回は「幸せ」について考えてみた。

nonkuru.hateblo.jp

 現在の世界の人口はおよそ74億3000万人。それぞれに文化的、思想的、身体的な差異があるが、唯一全世界の人に共通するのは「幸せになりたい」という想いではないだろうか。約7万年前に起こった認知革命以後、人類は「本能的に生きる」だけではなく「幸せに生きる」ということを探求してきたはずだ。しかし未だに「幸せ」の明確な定義はない。(数学で最大の難問とされていた「フェルマーの最終定理」でさえ360年で解けたのに)。

「幸 ー 幸せ」

【「幸せ」には種類がある】

 「幸せ」について考えていて最初に思ったことは、「幸せ」を捉え難くしているのはなぜだろうかということである。なぜ捉え難いのかは、「幸せ」の定義が年齢・経験・信仰によって変化するからだと思った。そこで、定義はできないかもしれないが、世の中で幸せと言われているものを分類することはできるのではないかと思った。
 まず幸せには大きく2種類あると思う。1つ目が「インスタントな幸せ」、2つ目が「根源的な幸せ」である。

インスタントな幸せ

 利己的である。幸せと感じる時間が短い割に、幸せと感じる閾値がどんどんと高くなってしまう。そのため再現性がない。例えば、生まれて初めて買った車の喜びはその1回その瞬間がピークであり、二度とその喜びは得られない。車を所有していることが日常化してしまうからだ。薬物にも似た即効性や依存性があるように思う。その代表格が「お金」である。お金の力を使って自分の幸せを演出することはできても、それは本物ではない虚像にすぎないので要求レベルが上昇し続けいづれ破綻してしまう。しかし、一定の水準までは実際にこうした富が幸せをもたらしてくれるというのも事実だ。

根源的な幸せ

 利他的である。他人との関わりの中で得られる幸せが多い。そのためすぐに得られるものではない可能性がある。根源的な幸せの中にもさらにいくつかの種類がある。

  1. 信頼のおける関係性を構築する幸せ
    一緒にいるだけで嬉しい、信頼、生理的欲求・安全欲求・社会的欲求

  2. 他人や社会に貢献する幸せ
     他を思いやることで自らの幸せを引き出せる、尊厳欲求自己実現欲求

  3. 時間を忘れて没頭する幸せ
     フロー状態、自己超越

またWikipediaには以下のような記述があった。  

1990年代の研究による様々な統計的データによって明らかになったことは、幸福感の基線を決めるのは、環境の客観的な条件ではなく、個々人の内的特徴(「信仰心」や「ものの考え方」など)である、ということである(「主観的厚生」と呼ばれているらしい)。また、幸福感を持っている人に共通する内的な特徴は4つあり、その4つとは ①自分自身のことが好きであること、②主体的に生きているという感覚を持てていること、③楽観的であること、④外向的であること、であると指摘されている。また、人は価値のある活動に積極的に参加し、自身のゴールをめざして前進するときに、より多くの幸福を感じることができる。引用:Wikipedia

これを踏まえると、 西野亮廣さんの以下の言葉に集約されると思う。

『幸福度は「クオリティ」ではなく「伸び率」で決まる。』

【「幸せ」に対する様々な立場】

生物学

 生物学において「幸せ」とは、体内における「快感」である。つまり外的要因は関係ない。神経やニューロンシナプスによって生じる脳内の電気信号やセロトニンドーパミンオキシトシンのようなさまざまな生化学物質にのみによって生じる快感が幸せの正体であるという。しかしその快感指数の標準設定値は人によって異なる。感動的な映画を鑑賞して快感を覚える人もいれば、それほどでもない人もいる。骨折をしてとても落ち込む人もいれば、それまでと大して変わらない人もいる。そして一時的に快感を得られても、人の感情はいずれ元の設定値に戻ろうとする。いわゆる「慣れ」が訪れる。

意義論

 ドラマや映画ではしばしば日々の生活にやる気のない主人公がひょんなことから周囲の人々に巻き込まれ、仕方なく付き合っているうちに自分の楽しみを見つけ最後には活力ある主人公に変わるというものがある。これはまさに自分の人生に生きる意義を見つけた典型的な例だ。またよく聞く話として、子育ては大変だけど成長を見られるのは幸せなことだというものだ。これが示しているのは、幸せとは「不快な時間」が「快い時間」を上回っていることではないということだ。そもそも科学的には人生に生きる意味はない。偶然生まれた地球の上での気まぐれな生物の進化の過程でしかない。しかし死後の世界を信じている人はそうでない人と比べて幸せだと思う。幸せとは自分が生きる意義はこれだと信じられるかどうかにかかっている。それは自己欺瞞にもなるかもしれない。

宗教や哲学(とくに仏教

 仏教では、刻一刻と変化する感情に対して「快い感情」を求めるということ、それ自体が「不快」であるとしている。つまり束の間の感情を空しく追い求め続けることこそ諸悪の根源である。そのことを理解し、束の間の感情の為に生きることをやめた時にはじめて心の平穏が訪れるというのだ。仏教用語では「涅槃(ねはん)」と呼ばれる境地である。さらに仏教では、本当の自分は何者かを理解することが幸せへの道しるべであるとしている。もしそうだとすると、経済的・物質的豊かさは「幸せ」とは関係ないのかもしれない。

期待感

 幸福は「期待」に左右される。主観的な「期待」と客観的条件の相関関係によって決まる。つまり何かを期待し、その期待が満たされると、幸福になる。一方、期待が満たされないと、不幸を感じる。しかし、生活状況がよくなれば、期待も上がっていく。心理学の分野では、人間は達成や楽しみを経験している時に、「満足」ではなく、「もっと欲しい」と感じることがわかっている。「もっと欲しい」という反応を示している限り、満足することはない。個人のレベルでもそうだが、集団でもそうなっている。30点だと思っていたテストの結果が80点だととても嬉しいが、90点だと思っていたテストが93点でも大して嬉しくはならない。反対に、骨折をしてしまうとその後の生活の期待は小さくなってしまうので生活水準が多少下がっても幸福度はさほど下がらないが、宝くじが当たるとその後の生活の期待が大きくなってしまうので生活が多少良くなっただけでは満足感は得られない。周囲のマスメディアや広告から得られる「期待感」はむしろ現代の人々、もっと言うと先進国人々の幸福度を下げている要因になのかもしれない。

 これら4つの立場の見解は、どれか一つが正解というわけではなくどれもが複雑に絡み合っているように思う。

さいごに

 今回は「幸せ」について考えてみたが、あえて何か答えを出すとしたら「信じる」に集約されると思った。人類は物語を想像しそれを信じることで繁栄してきた。そしてその「信じる」という能力こそが人が人であるということならば、人生に意味があるのか、ではなく人生という意味を自分で創造することがこれからの幸せにつながるのだと思う。近代の人々は何を幸せと信じていたのかを考えてみると意外に答えは身近にあった。そのひとつは資本主義だ。資本主義者は、経済成長と物質的豊かさを実現し、人々に自立と進取の精神を教え諭すことによって、自由市場だけが最大多数の最大幸福をもたらすこができると主張した。より豊かで健康になれば、人々はより幸せにもなるはずだと。また科学者は知的好奇心を満たすことや人類の知識量を増大させる人生に意義があると信じている。政治家はより良い国にしていくことこそ自らの人生の意義だと信じている(はず)。

 改めてこれから自分は何を信じて生きていきたいのかを考えてみた。それは「信用主義」だと思う。暗号通貨やクラウドファンディングVALUというテクノロジーやサービスによって個人とそのつながりがクローズアップされる時代になってきた。そんな時代に「嘘」をつくことのリスクは大きい。デジタルネイティブは気づいている。テレビは「予定調和」だと。お金やクレジットは本物の信用ではない。これからは人間関係の中で生まれる本物の信用を獲得して行くことが大切ではないかと思う。

そしてその信用を糧により多くの利他に貢献することが結果的に満足感や自己肯定感、承認欲求を満たすことになり結果的に自分の幸せにつながるのだと思う。