ロマンティック・アイロニー

好きなこと・気になったことについて書いていきます!

人生のコンパス 〜「学び」編〜

はじめに

 今年の夏休みは2社インターンシップに参加した。その2社は大手企業とベンチャー企業だった。また分野の違うインターンシップの報告会にもほんの少し関わった。そして、これまで何度かやってみたいなと思っていたがあまり優先度が高くなかった「ヒッチハイク」にも挑戦してみた。そんな中でいろいろな方と話し、見て、感じたことで「自分が本当に欲しているモノはなんだろうか」「どんな企業に行きたいのか」「これから何をしていきたいのか」等を夏休みの振り返りも兼ねてじっくり考えておきたいと思った。石段の家プロジェクトリノベウィークにも参加したい気持ちもあったが、あえて一人で時間をかけて考えてみる方が今後のためにも良いのではないかという直感が働いたので今回はお断りさせて頂いた。

 というわけで、これまであまり明確に考えてこなかったコトや疑問に思っていたことを改めて考えてみることにした。まだまとめ終わっていない、考えきれていないところもあるが、完成を待っているといつまでも公開できないと思ったので途中ではあるがとりあえず公開してみることにした。そこでもしコメントがもらえればそこからさらに深めるヒントにもなると思った。また一度に全てを書くと読むのが億劫になってしまうと思ったので、いくつかに分けて投稿していきたいと思う。                                                                                ※文章のつながりがない部分も散見されると思いますが、優しい目で意味を汲み取って頂ければと思います。

「学 ー 学び」

【何のために”大学”へ行くのか】

 結論からいうと「幼少からの環境に依存した思考の枠」「臆見」を認識して、それらにとらわれずに考える術を学び、思考をリベレイト(自由に)することにあると思う。一言で言うと「批判的思考力」だ。社会の多くのモノ・コトは人類の想像によって生み出されたものだ。言語しかり貨幣・宗教・資本主義・会社・株式その他多くの思想や芸術作品。これらは地球においては必要なものではないが、人が ”集団”で生活し繁栄するうえで重要なものだ。しかしその想像力のおかげで偽の情報が生まれたり、生まれた時には既にあったルールを常識と認識して思考の牢獄にとらわれてしまったりする。そこから脱出するために「批判的思考力」を養う必要がある。そして、より聡く、より敏感に、より自由に、より満たされて生きられるように自己を確立していくことが必要である。書物、知識、芸術作品や思索が生んだ作品、さらに周りの仲間たちがそれぞれのやり方で自分の答えを探そうとしていることから感じるプレッシャー。それらすべてが刺激し、混乱させ、妨害することによって、それまでの人生を根底から覆すような経験が必要ではないか。そう考えると、今の大学を楽しくないと思ってしまうのは「感情の揺さぶり」が少ないことが原因ではないかと思う。

【なぜ ”大学で” する必要があるのか】

 大学は「現実社会とはかけ離れた特別な場所」だからである。両親という安全基地から離れ、生き馬の目を抜くような社会とのはざまで冷静に考えられ、「社会」を客観視できる環境にある。大学は、考えることを学べる最初の場所でなければ、最後の場所でもないが、最高の場所であると思う。

【どうすればよいか】 

 まず基本的なことだと思うが専攻に限らず興味を持ったこと・疑問に思ったことや常識だとされていることについて調べてみることにあると思う。そのうえで意識的に「ロマンティック・アイロニー」を確保することだ。ロマンティック・アイロニーとはドイツ・ロマン派の思想家フリードリヒ・シュレーゲルが提唱した概念である。直訳すると「浪漫的皮肉」。その説によると、なんでも天才というものは、何の目的もなく、意識して努力することもなく、終日あてもなくぶらぶら歩き回らなくてはならないというものだ。さすがにこれは誇張されたまさに皮肉のようにも聞こえるがこれの意味するところは、意識的に「ぶらぶら散歩する」や「河川敷に寝転んで空をみる」「ぼんやり山を眺める」のような何にもしない時間をとることの重要性を言っているのではないかと思う。最近の脳科学の研究では、先ほど挙げたような特に何もしていない時間に、脳のDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)と呼ばれる回路が活性化し記憶の関連付けや消去などの活動が行われているという説があるらしい。情報が錯綜し脳の休まる時間が減った現代だからこそあえてそのような時間を作り、自分を内観してみる。そういうことを繰り返す行うことで、ゴーギャンの代表作『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』というような根源的な問いができる心の余裕が生まれ、自己の確立に繋がるのではないかと思う。
 また留学すると考え方が変わったという話はよく耳にするが、おそらく「留学」という全く異なる環境に身をおく行為によって自分自身を内観することが多くなり、図らずともこの「ロマンティック・アイロニー」を作り出していたのではないかと思う。「読書」も留学と同じように自らを内観できる機会を提供してくれるが、その効果の持続性はとても短いように感じる。そして母校の呉高専での「インキュベーションワーク」という取り組みも「感情の揺さぶり」という点で有効に働けば良いなと思う。

さいごに

 学部の経験を就職の準備だけのために捧げてしまうのは勿体無いと思う。大学が職業訓練校化しているように思う。専攻科目は他に何も学ばないから専攻なのではなく、他に学ぶからこその専攻ではないか。ここの認識の違いが普段大学の友達との関わりの中で感じていた違和感なのかもしれない。もし大学を出るとき、入ったときと同じまま(同じことを信じ、同じ価値観を持ち、同じ希望を抱き、同じ理由で同じ目標を目指している)なら学位をとると言う意味では成功ではあるが、別の意味で大学をしくじったのかもしれないなとも思う。
 手元にスマホがある時代に同じ時刻に同じ教室に集まって一方向通信の講義を受ける。そこにのっかるコンテンツも全員を同じレベルに揃えて効率的な人間にしようとしてきた。そもそもひとりひとり違う周波数を持っているのに無理に合わせようとするから歪みが生まれてくる。その中で大学は、個性を伸ばす意味でのアンプや個人の内面を知る意味でのフーリエ変換としての機能が今後重要になってくると思った。